高村光太郎と智恵子の歩いた小道
2010年11月28日 高村光太郎と智恵子の歩いた小道
高村光太郎の詩「樹下の二人」が詠まれた安達町にある小路を歩いてみたいとずっと思っていた
「樹下の二人」は、冬の初めころ福島県安達町にある智恵子の生家の裏山(鞍石山)を訪れた時に詠まれた詩だと思う
このBLOGに何度か書いた様に私が東北に住んでいた短い歳月の中で光太郎の縁の地に度々遭遇していたが、わざわざこの地を訪れたのは初めての事だった
この詩が読まれた季節と同じ初冬に来ることが出来たのも偶然とは思えない気がする
私は智恵子の生家を見学した後、二人が一緒に登ったであろう小道を辿ってみることにした
智恵子の生家
智恵子が育った家は安達の町の裕福な造り酒屋だと言うだけあって、明治16年に建てられたとは思えないほど素晴らしい屋敷だった
一般の民家とは思えない立派な襖や屏風に加え、2階には酒を作る職人達の部屋や階段下には彼ら専用と思われる囲炉裏が設えられていた。
また智恵子が弾いた琴やベートーベンの“田園”を聞いていたと言われる蓄音機などが展示されていて智恵子幼少の頃の豊かな生活が偲ばれる。
蓄音機の脇にある説明によれば、彼女が光太郎と離れて故郷に帰っていた頃“田園”を良く聞いていたと書かれている
彼女は光太郎の詩の構成と、この交響曲に繰り返し出てくる美しい主題のメロディの構成に似たものを感じて、光太郎を偲んでいたのかも知れないと思った
二人が歩んだ小路は実家のすぐ裏の古峰神社へ続く参道から始まっていた
銀杏の木や柿木の参道を暫く登ると神社の境内に着き、更に登ると緩やかな小道が続いていた
古峰神社の境内
詩に書かれている様に、初冬に吹くちょっと冷たい“松風”の中を二人が歩く姿が見えるようだ
暫く歩くと小高い山の頂上に立つ大きな桜の木と詩が刻まれた石碑に行き着いた
記されていたのは詩の後半の一部(赤い字)、二人で一緒に当地を訪れた喜びが溢れている部分だが、この後に続く言葉には再び離れて暮らさなければならない光太郎の寂しさ、やるせなさが出ていて智恵子に対する気持ちが強く伝わってくるのである。
特に最後の部分、智恵子を生んだこの地をも愛おしく思って、この地を去る前にもう一度この物寂しいパノラマの地理を教えて欲しいと訴えている部分など何度読んでも感動させられてしまうのは、その後の病んでいく智恵子の心と、彼女が亡くなった後も一生涯彼女を愛し続けた光太郎の生涯を知ってしまったからだろうか
**********樹下の二人(後半)***********
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
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